砂場
Ⅱ 系譜 東京(日本橋・虎ノ門・南千住/発祥は大阪) 2026-09-26 室町砂場 日本橋本店

この蕎麦は何か
中心が、どこにもない系譜である。
藪にはかんだやぶそばがあり、更科には麻布永坂の三軒がある。砂場には、それに当たる店がない。
発祥の地は大阪だが、そこに砂場を名乗る蕎麦屋は一軒も残っていない。残っているのは石碑だけである。
江戸の本家は残っている。ただし、その店も「ここが砂場の中心だ」とは言っていない。
そしてそれを、当事者が認めている。室町砂場のお品書きには、こう書かれている。
当店からののれん分けはございません。
"砂場"を名乗れるお店はたくさんございますが、各々別の経営で、店主により味もお品書きも異なります。
都内に砂場を名乗る店は多いが、それらを束ねるものは何もない。
藪・更科・砂場を「江戸三大蕎麦」と呼ぶ。三つの中で砂場だけが、名指しできる中心を持っていない。
判別条件
ない、というのが答えである。
通説として言われているのは、こうである。
- 麺は白く、細い
- 二八
- つゆは甘く、濃い
- 天ざる・天もりがある
調べていくと、四つとも成り立たなかった。
★「白い」は、一軒の中で成立していない
室町砂場のお品書きには、粉の違いが明記されている。
| 品 | 粉 |
|---|---|
| 別製ざる/別製天ざる | さらしな粉を使用 |
| もり/天もり | 挽きぐるみ等を使用 |
同じ店の中で、白い蕎麦と黒い蕎麦を出し分けている。
江戸の蕎麦屋では、もりとざるを海苔の有無で分けるのが一般的である。戸隠そばは「ざるでも海苔をかけない」ことを要件にしていた。
室町砂場は、粉で分けている。これは他に例を見ない。
そして「砂場は白い」という通説が、この一軒の中で崩れている。
★「甘い」も、揃っていない
同じ「砂場のつゆ」について、四つの資料が違うことを言っている。
| つゆ | |
|---|---|
| 通説・解説記事 | 甘い |
| 十四代目当主 | 甘くなく、辛くもない中庸 |
| 室町砂場(実食) | 甘い |
| 虎ノ門大坂屋砂場(紹介文) | 濃いめ。甘さの言及はなく、甘いのはそば粉のほうとする |
店が、そうなる理由を書いている。
"砂場"を名乗れるお店はたくさんございますが、各々別の経営で、店主により味もお品書きも異なります。
砂場という名前は、味を約束していない。
★「天ざる・天もり」は、一軒のものだった
天ざる・天もりは、室町砂場が生んだものである。店のお品書きにも「当店発祥」と明記されている。
つまり、砂場全体の共通点ではない。
虎ノ門大坂屋砂場の品書きに、天ざる・天もりはない。あるのは「天せいろ」で、しかも種類が多い。天せいろ、牛蒡の天せいろ、桜えび天せいろ、あおりいかの天せいろ、白魚の天せいろ。名物は芝海老のかき揚げ天せいろとされる。
呼び方が違い、中身も違う。
★要検証:虎ノ門の「天せいろ」が、室町砂場の天ざるのようにかき揚げをつけ汁の中に入れて出す形かどうかは確認できていない。
残るもの
二八。ただし二八は砂場だけの特徴ではない。
藪は「屋号では判別できないが、麺とつゆで判別できる」だった。
砂場は、麺でもつゆでも判別できない。
そしてそれは、欠点ではないのかもしれない。砂場という名前は系統を指しているだけで、味は各店のものだと、店自身が言っている。
なぜそうなったか
名前は、砂の置き場から来ている
室町砂場の掲示によれば、由来はこうである。
大坂城の築城や修復の資材置き場としての「砂場」。その近くに繁盛していた麺屋が、その俗称で呼ばれるようになり、次第に屋号となった。
天正11年(1583年)、和泉屋と津国屋という二軒があったとされる。日本最古の蕎麦屋の系譜と言われるのは、この年号による。
★要検証:1583年という年と、和泉屋・津国屋の名は複数の資料に出てくるが、室町砂場の掲示には年も店名も書かれていない。
★由来すら、店によって違う
同じ砂場でも、店が掲げる由来が一致していない。
| 店 | 砂場に何があったとするか |
|---|---|
| 室町砂場 | 砂場の近くに繁盛していた麺屋があり、その俗称が屋号になった |
| 虎ノ門大坂屋砂場 | 和泉屋という菓子屋が、資材の砂置き場に蕎麦屋を開店した |
麺屋か、菓子屋か。
京都では、寺で製粉と製麺をしていたものを、練る・伸ばす・切るの技術を持つ菓子屋が請け負うようになり、そこから蕎麦屋が生まれたとされる。大坂屋砂場の由来は、それと同じ形をしている。
名前も、味も、そして由来も、店ごとに違う。
発祥の地に、店はない
大阪に砂場を名乗る蕎麦屋は残っていない。
大阪市中央区の新町南公園に「ここに砂場ありき」の石碑が建っている。残っているのは、それだけである。
のれん分けで江戸へ、そこで系統に分かれた
店の掲示は、続けてこう書いている。のれん分けなどで江戸に伝わり、江戸の地で蕎麦文化の広がりとともに広がった。そして室町砂場は、そうして江戸に広まったいくつかの系統のうちの一つとして独立し、明治二年から日本橋で営業を始めた。
「いくつかの系統のうちの一つ」。店は自分を本流とも本家とも言っていない。
★江戸の本家は、移転して残っている
江戸の記録に見える本家は「糀町七丁目砂場藤吉」である。1848年の『江戸名物酒飯手引草』には、6軒の「砂場」が紹介されているという。
この藤吉が移転して存続したものが、南千住砂場総本家とされる。荒川区南千住(三ノ輪)の商店街「ジョイフル三ノ輪」の中にあり、建物は1954年の木造建築で、荒川区の文化財指定を受けている。
「総本家」を名乗っているのは、そのためである。
★要検証:室町砂場と虎ノ門大坂屋砂場について、「糀町七丁目砂場藤吉からの暖簾分け」とする記述と、「南千住の砂場総本家からの暖簾分け」とする記述の両方がある。南千住=藤吉の移転であれば同じことを指すが、資料によって書き方が割れている。
そして虎ノ門大坂屋砂場は、その藤吉からの暖簾分けにあたる。明治5年の創業で、初代は稲垣よそ、二代目はその夫の稲垣音次郎。同店の公式サイトによれば、創業の際に旧大名家「阿部家」の敷地の一部を譲り受けるなど、初代よそは武家との親交が厚く、幕末の三舟と呼ばれる山岡鉄舟・高橋泥舟・勝海舟に贔屓にされていたという。
山岡鉄舟が贈ったとされる書が、いまも店内に残されている。
初代が女性である。そして贔屓にした相手は、店の成り立ちと繋がっている。
★ただし、大坂の砂場と江戸の砂場の関係は明らかではないとする記述もある。『蕎麦全書』(1751年)に「薬研堀大和屋大坂砂場そば」、『江戸見物道知辺』(1781〜89年)に「浅草黒舟町角砂場蕎麦」の名が見えるが、大坂との繋がりを示す記録は確認されていない。
大阪では絶え、江戸では残った。ただし、繋がっている証拠がない。
つゆが甘いとされる理由
通説では、出前が主だったからと説明される。運ぶうちに蕎麦の水気が引くので、辛すぎないよう甘めに仕立てたという。
藪のつゆが辛いのは、客がその場で急いで食べたから。砂場のつゆが甘いのは、客のところまで運んだから。
★ただし、当主はその甘さ自体を否定している。理由は残っているが、対象が揺れている。
★天ざる・天もりを生んだ
お品書きに、店の言葉で書かれている。
"天ざる""天もり"は当店発祥。天ぷらそばを、暑い夏でも食べ易くと冷たいつけ麺スタイルにしたのが始まりです。
温かい種物だった天ぷらそばを、冷たいつけ麺に移した。
★これは江戸時代のものではない。店の公式サイトは「戦後、三代目兄弟の時に」とし、1955年の開発とする記述もある。
砂場が生んだと言い切れるものは、これである。そしてそれは百年前ではなく、七十年ほど前の発明である。
★要検証:1955年という年は「定かではない」とする記述もある。
古い形を、注記つきで残している
お品書きには、いまの一般的な呼び方と違うものに注記がある。
かけそばには、気の短い江戸っ子が丼に移した蕎麦に、濃いつけ汁を「ぶっ掛け」で食した「本来の」かけそばとあり、具無しの出汁そばではないと断っている。
あられそばは、吟味した貝柱を霰に見立てた古典の逸品。花まきは、上質な揉み海苔を散らした香り高い古典の逸品。
「本来の」「古典の」という言葉が、何度も出てくる。
藪の記事に書いた「せっかちな江戸っ子」が、ここでも理由になっている。同じ客が、藪ではつゆを辛くさせ、砂場では丼にぶっ掛けさせた。
誰が定義しているか
誰も定義していない
商標は登録されているとされる。藪は誰も登録せず、更科は登録しようとして断念し、戸隠は三団体が申請して登録に至らなかった。砂場は登録されている側にいる。
★要検証:保有者と登録時期を確認できていない。
それでも、味は定義されていない。室町砂場が「各々別の経営で、店主により味もお品書きも異なります」と書いているとおりである。
更科には「お七軒様」という閉じた集合があり、一門であるかどうかを確定できた。砂場にはそれがない。
★木鉢会の版画
室町砂場の店内に、木鉢会の版画が掲げられている。昭和三十三年発足とある。
木鉢会は、蕎麦店の三代目以上を会員とし、各のれん間の技術交流、蕎麦技術の伝承と向上を目的として昭和33年に発足した会である。その親にあたる銅子会(昭和26年)は、二代目以降の店主たちが、のれんを越えて作った会だった。
「蕎麦作りの基本の基本である木鉢(蕎麦粉と水を混ぜ練る技術)」から名を取ったとされる。昭和30年代は新規参入が多く、蕎麦の味に乱れが生じ、技術の断絶が心配されていたという。
版画に並ぶ店名には、砂場が三軒(室町砂場・虎ノ門砂場・巴町砂場)、更科が五軒(麻布十番更科堀井・芝大門更科布屋・神田錦町更科・築地布恒更科・築地さらしなの里)、藪が五軒(神田やぶそば・池の端藪蕎麦・浜町藪そば・梅島藪重ほか)。そして神田まつや、尾張屋、浅野屋、能登治などが続く。
藪も更科も砂場も、同じ一枚に載っている。
暖簾では分かれている店が、技術では繋がっている。
砂場に総本山がないことと、この会があることは、無関係ではないかもしれない(★推論)。
★要検証:版画が発足当時の名簿か、現在の加盟店かは分からない。現在は33店舗とされる。
つゆと薬味
麺:品書きによって粉が違う。ざる・天ざるはさらしな粉、もり・天もりは挽きぐるみ等。
つゆ:店ごとに違う(判別条件を参照)。
天ざる・天もり:室町砂場が発祥。かき揚げがつけ汁に入って出てくる。一品料理の天ぷらとざる・もりのセットではない、と店が注記している。
天種:虎ノ門大坂屋砂場は芝海老のかき揚げを天せいろに使う。室町砂場の天ざるには、イカと海老が入っていた(実食)。
★同じ砂場でも、天ぷらの中身が違う。
食べられる店
東京の老舗
| 店 | 創業 | 備考 |
|---|---|---|
| 室町砂場 日本橋本店 | 明治2年(1869年) | 天ざる・天もりの発祥店。日本橋と赤坂の2店舗のみで、のれん分けはしていない。土曜11:30〜16:00、日曜・祝日休。木鉢会・銅子会 |
| 室町砂場 赤坂店 | — | 同じ経営。木造日本家屋。古くは花柳界の土地 |
| 虎ノ門大坂屋砂場 | 明治5年(1872年) | 本家「糀町七丁目砂場藤吉」からの暖簾分け。初代は稲垣よそ、二代目は夫の稲垣音次郎。幕末の三舟(山岡鉄舟・高橋泥舟・勝海舟)が贔屓にしたとされ、山岡鉄舟の書が店内に残る。天せいろは芝海老のかき揚げ。建物は大正12年築で登録有形文化財。木鉢会・銅子会 |
| 南千住砂場総本家 | — | 本家「糀町七丁目砂場藤吉」が移転して存続したもの。建物は1954年の木造建築で荒川区の文化財。木枯れ節を洗って蒸かして使う |
巴町砂場は閉店している。木鉢会の版画には名が残っている。
それ以外
都内に砂場を名乗る店は多い。
藪や更科と違い、系譜が明示されていない。どの店がどこから暖簾を分けたのかを辿れる資料が、見つかっていない。
そして室町砂場が「各々別の経営」と書いているとおり、名前が共通していても中身は繋がっていない。
大阪
砂場を名乗る蕎麦屋は残っていない。大阪市中央区の新町南公園に「ここに砂場ありき」の石碑がある。
食べた記録
室町砂場 日本橋本店
土曜の12時に訪問。以前行った時に閉まっていたので、ほっと安心。
店内満席。1組お待ち。店内は暗めの灯り。昼から蕎麦前と冷酒を楽しむ方多い。
お店発祥の天ざるを注文。待っている間にメニューを見る。蕎麦前の種類が多く、2階ではコースも注文出来るとの事。
藪ほどではないが、店員さんのいらっしゃい〜の声が心地いい。テーブルや小上がり席にひっきりなしに蕎麦前が運ばれている。
10分程で天ざるが蕎麦湯と一緒に到着。
まずは麺だけを頂く。コシがしっかりあって美味しい。更科もコシがあったが、ツルッとした感触が同居していた。こちらはコシが強調される。
次に天ぷらだけを頂く。噛みごたえのあるイカと海老が入っており、衣はカラッとあげたものがつゆを吸っている。
次に、つゆに麺をつけて啜る。甘いつゆ。天ぷらが浸っていることもあり、麺はしっかりつけて食べるのが合っていると感じる。
薬味は山葵と白髪ネギ。天ぷらが浸ったつゆなので、薬味と麺とつゆの相性は判別出来ない。薬味を付けずに麺をつゆにつけて啜り、天ぷらをつまむ。
麺量は少なめ。お腹を満たすのではなく、蕎麦を頂くことの満足感。
蕎麦湯はかなりあっさり。つゆが優しい味なので、あっさりが合っているのかも。薬味をここで入れて完食。ご馳走様でした。
出典・確認状況
| 事項 | 確度 |
|---|---|
| 室町砂場がのれん分けをしていないこと/砂場を名乗る店は各々別の経営で、味も品書きも異なること | 確定(室町砂場のお品書き) |
| ざる・天ざるはさらしな粉、もり・天もりは挽きぐるみ等を使うこと | 確定(同上) |
| 天ざる・天もりが当店発祥で、天ぷらそばを冷たいつけ麺にしたものであること | 確定(同上) |
| 「本来の」かけそばが、丼に移した蕎麦に濃いつけ汁をぶっ掛けたものであること | 確定(同上) |
| あられそばが貝柱を霰に見立てた古典であること/花まきが揉み海苔の古典であること | 確定(同上) |
| 大坂城の資材置き場「砂場」の近くの麺屋が、俗称から屋号になったこと | 確定(室町砂場の掲示) |
| のれん分けで江戸に伝わり、その系統の一つとして明治2年に日本橋で独立したこと | 確定(同上) |
| 木鉢会の版画が店内に掲げられていること(昭和三十三年発足) | 確定(実見) |
| 木鉢会・銅子会の成り立ちと目的 | 確定(更科布屋の記述ほか) |
| 室町砂場が明治2年、虎ノ門大坂屋砂場が明治5年創業であること | 確定 |
| 虎ノ門大坂屋砂場が登録有形文化財であること | 確定 |
| 十四代目当主が「甘くなく、辛くもない中庸」と語ったこと | 確定(取材記事) |
| 大阪に現存せず、石碑のみであること | 確定 |
| 1583年、和泉屋・津国屋の名 | 通説(店の掲示には年も店名もない) |
| 虎ノ門大坂屋砂場が糀町七丁目砂場藤吉からの暖簾分けであること | 通説 |
| 南千住砂場総本家が、本家「糀町七丁目砂場藤吉」の移転・存続であること | 通説(複数資料が一致) |
| 南千住の建物が1954年築で荒川区の文化財であること | 確定 |
| 虎ノ門大坂屋砂場の初代が稲垣よそ、二代目が夫の稲垣音次郎であること | 確定(同店の公式サイト) |
| 幕末の三舟(山岡鉄舟・高橋泥舟・勝海舟)が贔屓にし、山岡鉄舟の書が店内に残ること | 確定(同上) |
| 創業の際に旧大名家「阿部家」の敷地の一部を譲り受けたこと | 確定(同上) |
| 大坂屋砂場が「和泉屋という菓子屋が開店した」と由来を掲げていること | 確定(同上) |
| 大坂屋砂場のつゆが「濃いめ」とされること/甘いのはそば粉とされること | 通説(港区観光協会) |
| 虎ノ門大坂屋砂場の品書きに天ざる・天もりがなく、「天せいろ」があること | 確定(同店の品書き) |
| 虎ノ門の名物が芝海老のかき揚げ天せいろであること | 通説(複数の記事・口コミ) |
| 虎ノ門の天せいろが、かき揚げをつけ汁に入れて出す形か | ★未確認 |
| 室町・虎ノ門の暖簾分けの元(糀町の藤吉か、南千住の総本家か) | ★資料が割れている |
| 1848年『江戸名物酒飯手引草』に6軒の砂場が載ること | 確定 |
| 大坂の砂場と江戸の砂場の関係が明らかでないこと | 確定(そう記す資料がある) |
| 天ざるが戦後・三代目兄弟のときに生まれたこと | 確定(室町砂場の公式サイト) |
| 天ざるの開発が1955年であること | ★要検証(「定かではない」とする記述もある) |
| 巴町砂場が閉店していること | 確定 |
| つゆが甘いのは出前のためという説明 | 通説(当主の発言と食い違う) |
| 麺にコシが強くあること/麺量が少なめであること | 実食(室町砂場・天ざる) |
| つゆが甘いと感じられたこと | 実食(同上)。★ただし天ざるは天ぷらがつけ汁に浸るため、つゆ単体の判定はできていない |
| 蕎麦湯があっさりしていること | 実食(同上) |
| つゆが甘いのか中庸なのか | ★要検証。もりか別製ざるで、天ぷらの入らないつゆを確かめる必要がある |
| もりと別製ざるで麺の色がどう違うか | ★未食 |
| 「砂場」の商標の保有者と登録時期 | ★要検証 |
| 版画が発足当時の名簿か、現在の加盟店か | ★要検証 |
| 室町砂場の創業年(明治二年説と慶応年間説) | ★要検証(店の掲示は明治二年) |
| 虎ノ門・南千住・赤坂での実食 | 未 |