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更科

Ⅱ 系譜 東京(麻布永坂) 2026-09-13 総本家 更科堀井

更科の蕎麦

この蕎麦は何か

白い蕎麦である。

そばの実の中心部だけを挽いた粉で打つ。甘皮が混ざらないので、麺は透き通るように白い。そば特有の香りは控えめで、そのかわりほのかな甘みと、なめらかな喉越しがある。

藪が「淡く緑がかった麺に、濃く辛いつゆ」なら、更科は正反対の位置にある。同じ江戸で、同じ時代に、逆を向いて成立した。

そして更科には、藪にも砂場にもないものがある。本家が三つあることだ。麻布十番の同じ界隈に「更科」を名乗る店が三軒並び、互いに別の経営であると言い合っている。


判別条件

  • 麺が白い。そうめんのような白さではなく、透き通るような艶のある白
  • 麺は細く、切り揃えられている
  • そばの香りは弱い。かわりに甘みがある
  • 季節の変わりそばがある。柚子切り、菊切り、よもぎ切りなど
  • つゆが二種類出る店がある(後述)

白いだけでは足りない

白い蕎麦を出す店は多いが、更科の系譜とは限らない。更科粉を使えば誰でも白い蕎麦は打てる。

逆に、更科を名乗る店のすべてが白い蕎麦を出すわけでもない。都内に更科を名乗る店は数十軒あるが、その大半は系譜と関係がない。

ここは藪と同じで、屋号では判別できない。


なぜそうなったか

更科は、信州の布商人が始めた

寛政元年(1789年)、信州出身で信州特産の晒布を扱う保科家御用の布屋だった八代目清右衛門が、領主・保科兵部少輔からそば打ちの腕を見込まれ、「布屋よりも蕎麦屋のほうが良いのではないか」と勧められた。麻布永坂の保科家の江戸屋敷のそばに掲げた看板が、「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」である。

「更科」の二文字は、合成された名前だ。故郷・信州更級郡の「更」と、恩義のある保科家から賜った「科」。そこに永坂の地名を加えて「永坂更科」となった。

蕎麦屋の屋号が、出身地と恩人の名前の合成である例は、他に見当たらない。

なお、店の掲示は創業年について「堀井家の伝によると」と前置きしている。当事者が断定を避けている。

この掲示自体、柴田書店『そば・うどん』第31号に岩崎信也が書いたものを店が引いたものである。店が自店の歴史を、外部の書き手の文章で掲げている。

なぜ白いのか

江戸初期の蕎麦は黒く、舌ざわりもぼそぼそしていた。そば殻や甘皮が多く混じっていたためで、生地に弾力が出ず、長く伸ばすこともできなかった。

製粉技術が進歩して、殻や甘皮の混じらない粉が挽けるようになった。そこで初めて、白く、喉越しのよい蕎麦が打てるようになる。

更科の白さは、技術が到達した先の色である。田舎そばの黒さが古い姿で、白さが新しい。

誰が食べていたか

更科を名乗る蕎麦屋の近くには、大名屋敷や有力寺院があった。更科はそこに出入りを許され、明治半ばの最盛期には皇室や宮家にも出前を届けた。

さらしなそばを「御前(ごぜん)そば」とも呼ぶのは、その名残とされる。江戸時代の更科の客は、武士、僧侶、豪商だった。

藪とは客層が違う。藪は下町で町人を相手にした。急ぐ職人のために、つゆを辛くした。更科は屋敷に出入りし、白く整えた蕎麦を出した。

同じ江戸の蕎麦だが、誰に出すかが違えば、蕎麦も違う。

つゆが二種類ある理由

総本家 更科堀井では、蕎麦によってつゆを使い分けている。

  • さらしなそば・季節の変わりそば → 甘口。当たりが柔らかい
  • もりそば・太打ちそば → 辛口。醤油を立たせてある

理由は麺の側にある。白い麺はつゆを弾きやすい。だから当たりの柔らかい甘口を合わせる。一方、太い麺はつゆが乗りやすいので、醤油の立った辛口が合う。

藪のつゆが辛いのは客が急いだからだったが、更科のつゆが甘いのは麺がつゆを弾くからである。どちらも理由があるが、理由の出どころが違う。


誰が定義しているか

ここが更科の特異なところで、定義する主体が三つに割れている。

分店と支店

一門には、暖簾分けに分店と支店のふた通りがあった。

分店を名乗れるのは、本家の子どもが新たに出した店の場合に限られる。支店は、本店で修業した従業員が独立したものである。

そして本店の従業員で暖簾分けを許されたのは、二軒だけだった。

創業以来、五代目布屋松之助に至るまで、麻布永坂「更科」は一軒も支店を出していない。暖簾分けが始まったのは六代目からである。

お七軒様

昭和5年の時点で、一門は八店。うち二店が同経営だったので、実質七経営。巷間「更科お七軒様」と呼ばれた。

麻布永坂本店            → 現・総本家 更科堀井
下谷池之端仲町 分店      → 閉店
神田錦町 分店           → 現存(神田錦町更科)
牛込通寺町 支店         → 現・築地さらしなの里
芝二本榎西町 支店        → 閉店
府下品川町歩行新宿 支店   → 閉店
京橋区尾張町 支店 ┐同経営
麹町区有楽町 支店 ┘      → 現・布恒更科

この集合は明治期に閉じていて、新しく増えることがない。だから「一門であるかどうか」は確定できる。

三つの本家

昭和16年、6代目・堀井保のとき、出資していた麻布銀行の倒産などで本家が廃業する。ここから分岐が始まった。

1947年  料理屋の馬場繁太郎が、堀井保から屋号と暖簾を譲り受け
        「永坂更科本店」を開業
1949年  堀井保と、玩具店経営の小林勇が
        「麻布永坂更科総本店」を開業
1957年  馬場と小林が調停。両店で同じ称号を使うことで決着
1984年  再び訴訟。小林側が敗訴。馬場は「永坂」と「更科」の間に
        スペースを空けることで和解
同年12月 8代目・堀井良造が独立し「信州更科布屋総本店」を開業
1985年  「布屋」の商標使用で裁判。「更科堀井」と改称

結果、創業者の直系が、自分の屋号を使えなくなった。「永坂更科」も「布屋太兵衛」も、商標は他の二軒が持っている。

店 経営 位置づけ
総本家 更科堀井 堀井家 創業者の血筋。9代目・堀井良教
永坂更科 布屋太兵衛 小林家 商標を持つ
麻布永坂 更科本店 馬場家 7代目から暖簾を譲り受けた

更科堀井は、麻布十番界隈に三店の更科があるが、他の二店はまったく別の経営であるとしている。

★本家が消えていた四十三年間

1941年の廃業から、1984年の再建まで。この間、麻布永坂に堀井家の店はなかった。

その四十三年間、神田錦町の分店が、堀井家直系の伝統を神田の地で守り続けている。本家が不在のあいだ、一門の技術は分店に残っていたことになる。

商標を諦めた過去がある

明治期、本家は「更科」の商標登録を断念している。当時すでに更科を名乗る店が多数あり、その全部と談判しなければならなかったためである。

藪が商標登録されていないのと、結果は同じだ。ただし理由が違う。藪は誰も登録しなかった。更科は、登録しようとして諦めた。

そして皮肉なことに、その後「永坂更科」と「布屋太兵衛」は商標登録され、直系が使えなくなった。

★要検証:断念した当時の店数(六百軒という記述がある)の出典を確認できていない。


つゆと薬味

麺:一番粉(更科粉)。そばの実の中心部だけを挽いた粉で、純白。でんぷんが主体で、たんぱく質は少ない。つなぎに小麦粉を使う配合が多い。コシは繊細で、のびやすい。

そば粉:更科堀井のお品書きには、国産の天然の蕎麦の実を、季節ごとに選んで自家製粉していると明記されている。

つゆ:店により、甘口と辛口を使い分ける。更科堀井の辛口は、出汁に本醸造醤油を長時間ねかせた「煮返し」を合わせたもの。甘口はみりんを使う。かけつゆには関西の薄口醤油を使うという。

薬味:更科堀井は千住葱を使うとお品書きに明記している。芯を抜いて細く切る。わさびも国産の生わさびとしている。

その他の食材:お品書きには、海老は天然の大車海老と小海老、鴨は国産の合鴨、鶏肉は国産の地鶏、玉子も国産と記されている。蕎麦だけでなく、種物の材料まで産地を明示している。

季節の変わりそば:柚子切り、菊切り、よもぎ切りなど。一番粉は色が白いので、色と香りを乗せやすい。白い麺だからこそ成立する遊びである。


食べられる店

麻布永坂の三店

店 経営 場所
総本家 更科堀井 堀井家 港区元麻布3-11-4
永坂更科 布屋太兵衛 小林家 港区麻布十番
麻布永坂 更科本店 馬場家 港区麻布十番

歩いて回れる距離に三軒ある。同じ屋号で、別の経営で、それぞれの蕎麦を出している。

一門で現存している三店

神田錦町更科(千代田区神田錦町)

明治2年(1869年)、一門で最初の暖簾分け。六代目布屋松之助のとき、初代・堀井丈太郎が「神田錦町更科分店」を開いた。丈太郎は松之助の妹・堀井かねと従兄妹同士で、かねの婿養子になる形で結婚している。本家の身内が出した「分店」である。屋号は「布屋丈太郎」。

現在は四代目・五代目の布屋丈太郎。支店を持たず、一店だけを守り続けている。

築地さらしなの里(中央区築地)

明治32年(1899年)、一門で最初の「支店」。初代・赤塚善次郎は明治9年生まれ。八歳で本店に奉公に出され、十七、八歳で本店の板前を務めるまでになった。十五年の修業を経て、二十三歳で独立している。

最初の店は深川佐賀町、看板は「麻布永坂更科支店布屋善次郎」。明治45年に牛込神楽坂へ移り「永坂更科牛込通寺町支店」となった。看板から「麻布」が消えたのは、その前年に麻布永坂町が永坂町に改称されたためとみられる。

善次郎は昭和14年に大東京蕎麦商組合の組合長を務め、16年に病没した。戦後、築地で「さらしなの里」として再興している。

布恒更科(品川区南大井/中央区築地)

麹町区有楽町支店の系統。昭和36年(1961年)創業。屋号の「布恒」は、一門の伝統の屋号「布屋」と、開業した恒次郎の名から。大森(南大井)と築地に店がある。

★要検証:創業年を昭和38年とする記述もある。


三店は、分店・支店・支店の流れを一つずつ代表している。

一門とは別の更科

芝大門 更科布屋(寛政3年創業)は、麻布永坂の暖簾分けではない。同じ信州の布商人が、二年後に独立して始めた別系統である。一門に連なるかは資料によって扱いが分かれる。

更科という名前は、最初から一つではなかった。

それ以外

都内に更科を名乗る店は数十軒ある。その多くは系譜との関係を辿れない。

ただし「関係がない」と断定する資料も存在しない。廃業した支店の孫弟子筋という可能性が常に残る。一門であることは確定できるが、一門でないことは確定できない。

だからこの記事では、名指しするのは一門の側だけにした。

★要検証:更科丸屋(中央区を中心に同名の店が複数ある)は、一門とは別に集団を作っている可能性がある。


食べた記録

総本家 更科堀井

日曜の13時頃に訪問。当日は麻布十番のお祭りがあり、地元と思われる方が駅前の大通りで神輿を担がれていた。そんな風情あふれる景色の中、商店街を少し行くと大きな看板が見える。

お並びは外に3組ほど。10分くらいですぐに中に入れました。今日は1人なので、カウンター席に案内して頂きました。

カウンター席にも法被を着た地元の方が更科を召し上がっていました。両隣の紳士はそれぞれ昼から蕎麦前と日本酒。江戸の粋を感じます。

蕎麦前がどれも美味しそうだが、本日はさらしなそば一枚をお願い。お品書きの店舗の歴史や食材へのこだわりを読んでいると10分程で到着。

まずは蕎麦だけを頂く。

常日頃蕎麦を食べる時は蕎麦っぽさを感じたいので、白いさらしなそばを遠ざけていた傾向にあったが、喉越しが気持ちよく、そして蕎麦を食べる一口目に感じる、独特の蕎麦を食べている感覚はしっかりとある。これがさらしなそばの美味しさなんだと納得。

次につゆにつけて食べる。やぶそばと違い、つゆの量がまず多い。つゆをつけることで、麺の喉越しがさらに良くなる。つゆは少し甘め。これがさらしなそばに合うというのが実際に感じられる。

次に山葵を少しのせて啜る。山葵とさらしなそばは相性バッチリ。個人的にはやぶのそばよりさらしなそばの方が山葵が合う気がする。甘いつゆとのバランスもあるのかもしれない。

薬味は白髪ネギと山葵と、おろしが少しついていて、今日はおろしはそのまま頂きました。

山葵とさらしなそばとつゆの相性を楽しみながら、麺が少なくなったところで、卓上のゆず七味を少しかけて食べる。これも美味しい。

良いタイミングで持ってきて頂いた蕎麦湯の時間。こちらのお店ではもりそばや十割そば、季節の変わりそばなどもあるが、みた限り、ほぼ全ての方がさらしなを頼まれていたからか、蕎麦湯は薄め。ただ、つゆが多く残っているので、沢山飲めるので、これも考えられているのかも。

麺量が少ないという記事を読むことがありますが、お腹を満たすというのとは少し違う、満足感で満たされる、上機嫌でお店を出て、次の場所に向かえる。そんなお蕎麦でした。


出典・確認状況

事項 確度
創業1789年・八代目清右衛門・保科家・「更」と「科」の由来 確定(更科堀井の掲示=柴田書店『そば・うどん』第31号/岩崎信也、ほか)
そば粉は国産・自家製粉/薬味は千住葱・国産生わさび 確定(更科堀井のお品書き)
種物の食材の産地表示 確定(同上)
一番粉を使う/白い/香りが控えめで甘みがある 確定(複数の製粉会社・更科堀井)
つゆを甘口と辛口で使い分ける理由 確定(更科堀井への取材記事・通販の商品説明)
さらしなそばのつゆが甘口であること/つゆの量が藪より多いこと 実食(更科堀井)
三店に分かれた経緯・訴訟・和解 確定(複数資料が一致)
お七軒様の内訳(昭和5年時点の8店) 確定
分店と支店の区別/暖簾分けを許された従業員は2名 確定(築地さらしなの里の沿革)
神田錦町更科の創業と婿養子の経緯 確定
築地さらしなの里の初代・赤塚善次郎の経歴 確定(同店の沿革)
布恒更科が有楽町支店の系統であること 確定(神田錦町更科の記述)
布恒更科の創業年 ★要検証(昭和36年説と昭和38年説)
「御前そば」の由来(大名屋敷への出入り) 通説
商標登録を断念した当時の店数 ★要検証(出典未確認)
芝大門 更科布屋が一門に連なるか ★要検証(資料により扱いが分かれる)
更科丸屋が独立した集団か ★要検証
麻布三店の味の違い ★未食(更科堀井のみ)